歴史

~歴史・文化~

見玉の今と昔

見玉は見玉のまんま

30数年前までは舗装もされず砂利道でした。道幅も今の半分以下ですれ違いもやっと...。学校に行く時には必ず決まった石につまずいて朝一から転んで...イタタタ。
今では二車線の国道が通り、大型観光バスも何の問題もなく入ってこられるようになりました。
家の前の田んぼには発電所工事の事務所が並び、その軒先にあるハチの巣を突っつくのが学校から帰ってからの日課?になっていました。当然、蜂の逆襲にあうわけですが、それをいかにかわせるか!今考えるとなんで?って感じなのですが、子どもの頃の自分たちにとってはドキドキ感とやったぞ感を試せる場所でした。

ガキ大将...。今ではあまり聞かなくなった言葉ですが、子どもの自分達にとっては絶対的な存在で、いくぞ!の一言で自転車に虫取り網や釣り竿、バットなどを縛り付けて山へ川へそして秘密基地へ出かけていました。当時はゲームなど持ってる家などほとんどなく、休みの日はほぼ山か川か学校のグランドで過ごしていた気がします。

今では道も広がり建物も大きく新しくなりました。交通の便も良くなり、町の中心部まで車で10分もあれば行けるようになりました。しかし、実際には自分達が子どもの頃過ごしたまんま。ちょっとだけ便利になっただけのような気がします。家の横の川には岩魚が泳ぎ、セミも蜻蛉も蝶も。そしてクワガタでさえその気になればいくらでも捕まえることができます。春には雪消えとともにに田植を行い、夏には畑を耕し野菜にかぶりつく。そして秋、田んぼは黄金色に染まり、山からの恵みをいただいて冬にそなえ、大雪が降ろうともそれを楽しむかのように黙々と雪を掘る...。
やっぱり何にも変わってません・・・。大好きな見玉のまんまです。(K)

見玉不動尊

眼病にご利益があるとされるお寺

見玉不動尊の始まりは、文治2年(1186年)平清盛の臣下、宮本清左衛門により不動明王がこの地に安置されたことが始まりと言われています。見玉不動尊は昔から眼病に霊験あらたかであることが知られ、東日本全体にその名が知られていたといいます。

昔、日光の東方に大変親孝行の青年がおりました。老父の眼病が悪化し、とうとう目が見えなくなってしまい、息子は大変悲しんでいました。そんなある時、青年は見玉不動尊の話を近所の人から聞き、早速この地に来て参詣。17日の断食参籠につとめ老父の眼病が治るようお祈りをしました。「願いをお聞きくださった暁には日光山の山深いところにある万年氷を背負って素足でお礼参りを致します」とお願いし国に戻りました。するとたちどころに霊験あらわれて、老父の両目は見えるようになったと言います。あまりの有り難さに青年は翌年大きな氷柱を背負い、裸足参りの願いを果たしたといいます。その他霊験あらたかな話は数知れません。
現在でも参詣者は大変多く、見玉不動尊は眼病をはじめ作神様としても名高く、これは別院正宝院の横に祀られている大黒天(農神の大黒様)の御利益によるものと言われ、多くの人々に信仰されています。

正宝院は鳥居の向かって左側にあり、山号は見玉山です。金玉山等があり不動尊の御玉から御玉山と号されたこともあったと言います。集落名でもある見玉も寛政年間には御玉村と呼ばれていたと言われ、現在の見玉に至っています。
文治2年(1186年)当時は中沢氏(宮沢清左衛門が改名)と高橋氏の2軒だけでこの村を形成していたと伝えられており、中沢氏の守り本尊である不動明王像と同居するのは恐れ多いということで不動堂(不動尊)を建て、その別院として正宝院を建てたと伝えられています。また、永禄の時代には全盛をきわめ七堂四十八塚といわれ、集落の殆どが不動尊の境内であったとも言われています。

文政年間に不動尊の所有権の諍いにより反対派より火が放たれてしまい、所蔵されていた宝物、文書などの殆どを鳥有に帰してしまったとされています。

見玉不動尊

苗場山麓ジオパーク

見玉からは2カ所登録

苗場山麓ジオパークは全国で36番目に認定されたジオパークで、見玉集落のある新潟県津南町、長野県栄村の地域全体がエリアとなっています。

ジオパークは大地の公園と訳され、ユネスコのプログラムでジオ(地球、地形、地質)、エコ(環境、動植物)、カルチャー(歴史、文化、伝統)の三つから成り経ち、教育、地域活動のシンボルに。

また、見玉集落からはジオサイト№14の石落とし、№15の見玉不動尊が登録されてる他、車で20分圏内に10箇所のジオサイトがあります。公認ジオガイドも3人が登録されており、見玉はジオツアーの拠点となっています。

苗場山麓ジオパーク

鈴木牧之の秋山記行

見玉を訪れた鈴木牧之

文政11年(1828年)9月8日~14日、 越後塩沢の商人鈴木牧之(すずきぼくし)は桶屋の団蔵と共に秋山を訪れています。

9月8日塩沢を出発し、小出、田代、所平を通り見玉集落の隣、野士(現在の太田新田集落)へ。その日のたそがれ時に見玉に到着し、町のような家並みに驚き、見玉不動尊の別院、正法院に宿泊しています。
正法院では大きな囲炉裏に六、七尺もある薪をどんどん焚くのに驚きながらも、出された食事を美味しい美味しいと食べています。次の日の朝食時は別の考えになったようですが…。法印の話を聞きたかったようですが不在であったため、数人の村人から見玉不動尊のご利益の話などを聞いています。(当時の見玉戸数は34軒と記されています。現在の戸数も34軒。既に現在の見玉集落の姿が…あった?)

翌日(9日)の朝、見玉不動尊をお参りし、清水川原、三倉(見倉)、中ノ平、大赤沢、甘酒と旅し、その日のたそがれ時に小赤沢に到着し福原市右衛門宅に宿をとっています。そして、家人から栃の実の食べ方や人々の生活の様子を詳細に聞いています。

翌日(10日)、黒駒太子堂の軸を拝見したいと願うがかなわず、太子堂のみのお参りとなっています。
上ノ原、を過ぎ和山では、美しい女性に出会うこととなります。(秋山に入って初めて褒めてるような気が…?)。
そして秋山第一の難所を何とか通り抜け、湯本(現在の切明)に到着し湯守の島田彦八宅に宿をとっています。牧之は主人から温泉の起源などを聞いたり、翌朝(11日)やってきた狩人(秋田マタギ)の話も聞きたいともう一晩泊まっています。そこでは秋山から上州草津への往来や山々や猟のことなど細かく聞き猿の皮を購入しています。
(清水川原ー三倉、三倉ー中ノ平、大赤沢ー小赤沢、上ノ原ー和山、和山ー切明の間は現在でも牧之が通った道が残っている場所があります。当時の面影を残す街道を秋山記行を持って歩いてみてはいかがでしょうか。)

翌日(12日)屋敷、大秋山村、前倉を抜け結東に到着、桶屋の知人である太右衛門宅に宿泊。ここで昨日購入した猿の皮を敷いて寝ようとしますがノミに悩まされることとなります。
翌日(13日)逆巻では、やっとの思いで橋(猿飛橋)を渡ることに…。見玉に到着し正法院にてお昼。(またも法印に会うことは出来ず)その日のうちに小出まで行き、翌日(14日)に塩沢の自宅へ到着しています。

牧之はこの旅で秋山を「命の洗濯ができる場所である」と評しています。
現在でも秋山記行を読んで、秋山に惹かれ多くの方々が訪れています。秋山記行を手にすることがあったら是非ページをめくってみて下さい。そこには百数十年前の桃源郷の世界が広がっています。

馬龍窟

知る人ぞ知る洞窟、馬龍窟(まりゅうくつ)

見玉集落、隣接の太田新田集落山中ひっそりとたたずむ知る人ぞ知る洞窟。平家の落人が隠れ住んでいたとの言い伝えがあり、馬の鞍が近年まで残っていたとも…。
要ガイド同伴です。

泣き石

ミステリーポイント?

これも知る人ぞ知る秘密のポイント。旧草津街道、見玉公園近くにあり、耳を近つ‘ければ音が聞こえるとも、投げた石がいつまでたっても下に当たる音が聞こえないとも…。
要ガイド同伴です。

秋成小学校跡

大自然の中の小さな小学校。惜しまれつつ閉校

1979年(昭和54年3月)惜しまれつつ閉校、中津小学校へ統合となりました。
当時の在校生は23名、先生6名、給食のおかあさん1名、用務員のおかあさん1名でした。
廊下は常に磨かれていてピカピカに輝き、体育館では野ウサギが走りまわり、校庭の大きな木の周はカブトムシ、クワガタが採り放題。プールは夏以外の季節はニジマスを育ててマス釣り大会。桜の季節は校庭でお花見給食。通学途中に拾った栗で次の日の給食は栗ごはん。秋の遠足では親子+先生方できのこ採り。きのこ汁にしてみんなでもりもり…。大自然の中の小さいがらも本当に楽しい学校でした。もちろん勉強もしっかりです。

秋山郷

見玉は秋山郷の入り口

見玉集落から長野県栄村切明までの間は秋山郷と呼ばれ平家落人の里と言われています。春には新緑、夏には清流、秋には全ての山々の紅葉を思いっきり堪能することができます。
特に、紅葉時にはその圧倒的に迫りくる紅葉を求め多くの皆さんが訪れ、その奥深さに感動して戻られています。ぜひ一度お越しください。

●紅葉の見頃
・10月第2週~11月第2週、10月22.23.24.25日は最盛期です。
・交通渋滞になります。早めの時間帯か日程を変更しての秋山郷をおすすめします。
・上記の日以外でも紅葉を十分に楽しむことができます。

秋山郷