私は昭和のはじめの誕生、戦前、戦中を見玉で過ごし、戦後まもなく兄住職に連れられて比叡山に行くことになり、ふる里の見玉を後にしました。本来、叡山の坊さんになる予定が、兄住職が突然他界したため、学業半ばにして一時見玉に帰り、寺務を引き継ぎました。
その後、再度登叡して、回峰行(修行)をすることになりましたが、母の死後、本山の師の命により信州善光寺に趣き、住職になり現在に至っています。
村を去って60有余年、何かにつけて想いは見玉の事ばかり。
高野辰之の詩「ふるさと」
兎追いし かの山
小鮒 釣りし かの川
夢は 今も めぐりて
忘れがたき ふるさと
見玉を思い出します。ふる里は、忘れようにも忘れられません。
歳を重ねて老いれば老いる程、こよなく恋しくなるものです。
持論ではありませんが、鮭や鱒もこの中津の川に生まれて大海で育ち、4年経てばこの中津川に帰ってきます。ましてや、人間も同じこと。
志を はたして
いつの日にか 帰らん
山は 青き ふるさと
水は 清き ふるさと
想いは先人たちに歌い継がれてきました。この地を後にして都会に出た人達は、皆、想いは同じでしょう…。
過疎化されてきたふる里も、まだまだ捨てたものではありません。私たち皆でふる里の見玉を愛して頑張っていきましょう。
在村する人たちが頑張っているのですから。
2020.11.25 村上光田(薫)