midama fudouson
見玉不動尊
眼病にご利益があるとされるお寺
山号は金玉山正宝院、天台宗のお寺
集落では「ふどさま」と呼ばれ、
目の病気を治すとの言い伝えから、
見玉のシンボルとして大変大切に崇められ親しまれています。
滝の小石を拾って目をなでると眼病が快癒するとの言い伝えがあり、
全国各地からも目の健康を願う人たちが参詣に訪れます。
苗場山麓ジオパークの「カルチャーサイトNo.2」として登録されています。
HISTORY
見玉不動尊
見玉不動尊の始まりは、文治2年(1186年)
平清盛の臣下、宮本清左衛門により
不動明王がこの地に安置されたことが始まりと言われています。
平家の落人伝説
平清盛の臣下により「不動明王」が安置
見玉不動尊の本尊・不動明王は、平家の守護仏だったもので、壇ノ浦で平家滅亡後、臣下の宮本清左衛門が見玉村に安置したと言われています。
壇ノ浦の戦い後の1186年(文治2年)に宮本清左衛門により「不動明王」、733年(天平5年)に「行其菩薩作」が安置されたと言われています。
その後、1822年(文政5年)、伽藍4棟及び清盛願文を焼失しましたが、不動明王は難を逃れています。
現在は五大明王が祀られ、多くの人々の信仰の対象となっています。
「眼病」にご利益
各地から参拝者が訪問
見玉不動尊は、昔から眼病に霊験あらたかであることが知られ、東日本全体にその名が知られていたといいます。霊験あらたかな話は数知れません。
老父の両目が治癒
昔、日光の東方に大変親孝行の青年がおりました。
老父の眼病が悪化し、とうとう目が見えなくなってしまい、息子は大変悲しんでいました。
そんなある時、青年は見玉不動尊の話を近所の人から聞き、早速この地に来て参詣。
17日の断食参籠につとめ、老父の眼病が治るようお祈りをしました。
「願いをお聞きくださった暁には、日光山の山深いところにある万年氷を背負って、素足でお礼参りを致します」とお願いし国に戻りました。
するとたちどころに霊験あらわれて、老父の両目は見えるようになったと言います。
あまりの有り難さに青年は翌年大きな氷柱を背負い、裸足参りの願いを果たしたといいます。
その他、見玉不動尊の霊験あらたかな話は数知れません。
現在でも参詣者は大変多く、見玉不動尊は眼病をはじめ作神様としても名高く、これは別院正宝院の横に祀られている大黒天(農神の大黒様)の御利益によるものと言われ、多くの人々に信仰されています。
GODAIMYOUOU
五大明王
本堂内に安置されている五体の守護神
本堂の不動明王
平家の守り本尊/中央守護神
本尊・不動明王は、天平5年酉年(西暦733年)行基菩薩の御作にて平家の守り本尊でありました。津南町に伝わる平家伝説の地でもあります。
また、平成24年には、織田信長の比叡山焼き討ち(1571年)の際に持ち出された5大明王うち、現存する2体が見つかったそうで、ここに安置されています。
五大明王は本堂内に安置されています。
五大明王
●中央守護神:不動明王
●北方守護神:金剛夜叉明王
●南方守護神:軍荼利明王
●東方守護神:降三世明王
●西方守護神:大威徳明王(騎牛像)
北方守護神
金剛夜叉明王
三面六臂の異形の顔に大日如来(味覚・臭覚・視覚・聴覚)を表す五つの眼を持ちます。六本の手には名前の由来である金剛杵や弓矢や剣、金剛鈴等を把持して構えています。
西方守護神
大威徳明王(騎牛像)
六面六臂六足で水牛に乗っています。六つの顔はすべて三眼をもち、異様な姿ですが、閻魔も降伏させる絶大な法力を持つとされ、戦場祈願の本尊とされることもありました。
中央守護神
不動明王
不動明王(秘仏)は、天平五年(七三三年)、行基菩薩の作であり、特に眼病平癒に霊験があり、昔から多くの眼病治癒の逸話があります。右手に剣を持ち、左手に羂索(けんじゃく)を持ちます。
南方守護神
軍荼利明王
三つの眼、八本の手を持ち、それぞれの手には白蛇が絡みついています。手には法具や武器を持ち、煩悩や障害を取り除き、何事も成し遂げられるようにすると言われています。
東方守護神
降三世明王
不動明王についで重視されています。四面八臂で胸の前で降三世印を結び、六本の手に様々な武器を持ち、ヒンドゥー教の神であるシヴァ神と妻ウマーを踏みつけています。
信州善光寺 長臈
村上光田 大僧正
kouden murakami
見玉ご出身である、信州善光寺長臈・村上光田大僧正(見玉不動尊 正宝院/第23世住職)よりメッセージを頂きました。
忘れがたきふる里
「見玉」
令和2年11月25日
村上光田(薫)
苗場の霊峰 南に高く
中津の清流 北へと長し
村人むつみて 家々豊か
その名もゆかし 秋成の里
山紫水明の地、私たちを育ててくれたふる里見玉、秋成小学校の校歌の一節です。
懐かしいですね。
その後、再度登叡して、回峰行(修行)をすることになりましたが、母の死後、本山の師(第二次世界大戦後初の北嶺千日回峰行大行満・叡南祖賢大阿闍梨)の命により信州善光寺に趣き、住職になり現在に至っています。
村を去って60有余年、何かにつけて想いは見玉の事ばかり。
高野辰之の詩「ふるさと」
兎追いし かの山
小鮒 釣りし かの川
夢は 今も めぐりて
忘れがたき ふるさと
見玉を思い出します。ふる里は、忘れようにも忘れられません。
歳を重ねて老いれば老いる程、こよなく恋しくなるものです。
持論ではありませんが、鮭や鱒もこの中津の川に生まれて大海で育ち、4年経てばこの中津川に帰ってきます。ましてや、人間も同じこと。
志を はたして
いつの日にか 帰らん
山は 青き ふるさと
水は 清き ふるさと
想いは先人たちに歌い継がれてきました。この地を後にして都会に出た人達は、皆、想いは同じでしょう…。
過疎化されてきたふる里も、まだまだ捨てたものではありません。私たち皆でふる里の見玉を愛して頑張っていきましょう。
在村する人たちが頑張っているのですから。
2020.11.25 村上光田(薫)
SHOUHOUIN
正宝院
正宝院は鳥居の向かって左側にあります。
本堂の別院として
正宝院は鳥居の向かって左側にあり、山号は見玉山と金玉山があり、不動尊の御玉から御玉山と号されたこともあったと言います。集落名でもある見玉も寛政年間には御玉村と呼ばれていたと言われ、現在の見玉に至っています。
文治2年(1186年)当時は中沢氏(宮沢清左衛門が改名)と高橋氏の2軒だけでこの村を形成していたと伝えられており、中沢氏の守り本尊である不動明王像と同居するのは恐れ多いということで不動堂(不動尊)を建て、その別院として正宝院を建てたと伝えられています。
また、永禄の時代には全盛をきわめ七堂四十八塚といわれ、集落の殆どが不動尊の境内であったとも言われています。
文政年間に不動尊の所有権の諍いにより反対派より火が放たれてしまい、所蔵されていた宝物、文書などの殆どを鳥有に帰してしまったとされています。
見玉不動尊 正宝院
tel.025-765-3886
第25世住職:池田明順